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どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

 自分の苦しみを書くことで、自分だけが救われるんなら、それは言葉とは言えないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。 ─谷川俊太郎

しゃべれなくても、縁を繋ぐことはできるはず

自問字答

 ある時からわたしは病気で、ほとんど全ての縁が切れてしまった。というか、それどころでなかった。自分のことで精一杯だった。それでそのまま切れてしまったままの縁がほとんどだと思う。そのことはわたしの人生にとって、大きな損失だと思う。病気になったことは、失った時間よりも失った縁の方が大きいかもしれない。
 昨日まで人間の魅力について考えてきたけど、魅力を媒介にして、縁は繋がれる。わたしに縁があったということは、それなりに魅力だってあったということかもしれない。それは誰にでも通用するような類いのものでなくて、ある種の人たちにとってのそれだ。縁を失ったことで、自分に魅力なんてないと思いがちだけど、そんなことは実際なくて、ただ縁がない、というだけなのだと思う。人と人との間に魅力という言葉があるんだとしたら、人と関わっていない現状の自分には、魅力を感じる機会さえないのだと思う。
 今付き合いのある人たちは、魅力を超えたところにいる人たちだ。きっと、今のわたしに魅力がなくても、一緒にいてくれる人たちだ。過去があったから、付き合ってくれる人たちだ。それだってある種の魅力といえるかもしれないけど、現在の自分というのが、どういう魅力を備えてるのか、ということは、人間はいつだって気になるものだと思う。というか、わたしはやっぱり、友達が欲しいんだと思う。だから、今の魅力にこだわるんだと思う。過去を知らなくても、付き合ってくれる友達が欲しいんだと思う。今のわたしだって改めて好きになって欲しいと思ってる。
 しゃべれないことで、それが削がれてるのはわかってる。だけど、それだけじゃない、それで消えない魅力を持っている、と信じたい。そのくらい強く、魅力的にならなくては、わたしは生きていけないと思う。
 生きていく、ということはしゃべることがすべてではないと思いたい。わたしには書くことだってできる。気を使うことだって、楽しいものを見せることだってできる。美しいものを見せることだって。しゃべることが人間のコミュニケーションの基本にあるのはわかってる。でも自分にはそれができない。だからと言って諦めることはできない。その範囲で生きることはしない。殻を破っていくことで、人間は成長していく。きっと、限界はない。しゃべれなくても、縁を繋ぐことはできると信じてる。

人との繋がりについて

自問字答

 どういうことで人と繋がりたいか、ということだと思う。人の悪口を言うことで繋がる人もあれば、お金をもらえるから繋がるという人もあると思う。いろんな繋がりがこの世にはあると思う。できることなら、自分の好きなことで繋がりたいと思うし、そう願うことは当たり前のことだと思う。
 今付き合いのある人たちは小学校の頃の友達が多いのだけど、あの頃はなんの損得感情もなかったから、純粋に友達だった、と思う。だからこそ信頼できるし、嫌な部分も知っているし、魅力があるのだと思う。魅力を感じる以前に、なんというか、繋がりがある。魅力はもう遠いところへ行ってしまっていて、何としてもこの人のことを許そうというところまで来てしまっている。友達とはそういうものなのかもしれない。よくわからない。
 たぶん、今から人と繋がるのって、すごく難しいことなんじゃないか、って思ったりする。ある程度は仲良くなっても、そこまで気を許せるだろうか。結婚することなんて、てんで予想もつかないけど、そういう人と出会ったとして、その人のことをそう思えるかといったら微妙だ、と思う。人を信頼するって、どういうことなんだろう。
 魅力的な人はたぶんたくさんいるんだと思う。でもその人たち全員と仲良くなるわけじゃないし、まだ何か思考が足りない。何が繋がりを左右するのだろう。
 それはつまり縁かもしれない。魅力的だとしても、縁がなければ繋がらない。繋がれない。人との繋がりを左右してるのはたぶん自分の意思とそれから縁だと思う。
 わたしは圧倒的に開いていない。閉じている。どんなに良縁があったとしても、それでは繋がらないのだと思う。
 どういう風に繋がりたいか、などと考えるのがもう間違っているのかもしれない。仲良くなるのなら何をやっても仲良くなるのだと思う。繋がってさえいれば。そこを繋ぐのは、ただ生きているだけじゃダメなんだ。ハプニングが必要だし、運もある。だけど、行動は何よりも金なのだと思う。同じものを好ましいと思えるかどうかがわかるのも、行動するからなのだと思う。わたしは無意識に無気力で、本当に良くないと思う。
 そのくせ考えてるつもりなんだから、始末に負えない。自分の事、見損なった方がいいと思う。

魅力は人との関わりの中で見出されるべきだ その2

自問字答

 他人がいるから、魅力という言葉はあるんだと思う。人との関係性の中に魅力というのは見えてくる。周りに人がいないと、魅力的、からは程遠い事になる。人がいるから魅力的になろうと思えるし、魅力を発揮したいと思える。自分の中にそういうものを見出そうとする。見出してもらいたいと思える。
 それは男女の関係だけにとどまらない。友達との間にだって、魅力というのは大事な要素だと思うし、仕事をしていたってそうだと思う。魅力というのは簡単に片付かない言葉かもしれない。
 人と人とが関わる時に、必ずついて回ることだ。魅力が見出しやすい人とそうでない人とあるかもしれない。わかりやすい人がいい人というわけじゃなくて、好みの問題だと思う。毒を吐く人は基本的には嫌われるけど、毒を吐くのが魅力になる人もあると思う。魅力が人を惹きつける力だとしたら、何らかの圧力で自分に引きつけていられることだって魅力のうちかもしれない。お金をいっぱい渡すのだって魅力といえば魅力だけど、わたしの考える魅力とはちょっと違う気もする。先に書いた毒を吐く人だって、共通する敵を糾弾するものだったら、魅力となるのかもしれないのだけど、なんか違う。
 どういうことで人と繋がりたいか、ということだと思う。今わたしは人とのつながりを選んでいるのだと思う。人の悪口を言ったり、お金をたくさんもらえるからといって人と関わるのは嫌だ、と思ってるに違いない。どちらも、魅力には違いないが、そうやって惹きつけることに抵抗があるのだと思う。
 わたしがどんな人間になりたいのかって、目立ちたいわけでも、有名になりたいわけでもない。魅力のある人間というのがどういう人間なのかもわからない。それは笑いを取れる奴とニアリーイコールかもしれない。自分はそうではないと自覚してる。しかし、人と関わるのなら、諦めてはいけない。つまらない人間になってはいけない。
 人と人との関係の間に魅力があるのだとしたら、わたしの魅力はなんなのか、自分ひとりでは、一生わからない。家族と居てもわからないだろう。家族はそういうことを超えたところにある。親子の関係ではそれは顕著だろう。今のままでは自分の魅力を発揮することなく、一生を終える。人と関わらなくてはならない。それは様々な面倒を連れてくることだ、わたしにとっては。それでも、自分がこの社会に生きているという実感を持ちたい。それは社会の中で関係性を持つということだ。魅力を持つということだ。それは人に見出されるべきものかもしれない。自分に、まだ見ぬ自分に、どんな自分があるのか、楽しみでもある。どんな自分を見出されるのだろう。しかと見届けたい。