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どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

 自分の苦しみを書くことで、自分だけが救われるんなら、それは言葉とは言えないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。 ─谷川俊太郎

自分に期待すること インタビュー

自問字答

 ──いつ頃まで自分自身に期待を持っていたと思われますか?
 高校の頃、あるいは大学の頃、かなぁ。病気になって大きく変わって、何も考えられなくなってしまった。自我というものを失っていたように思う。ここ数年でそれを取り戻しつつあるけれど、自分に期待できるほどではないと思う。
 わたしが思うに、人との関係の中で、人は自分への期待を持っていくのではないでしょうか。人に期待されるから、自分も自分に期待する。自分に期待するから、人の自分への期待が見える。周りに人がいない人にとって、期待とは程遠いところにいると思うんです。期待のきの字さえない。自分にも期待しない。そういう悪循環があるように思います。
 ──いつかまた御自分に期待できるようになると思われますか?
 自分に期待しなければ、できないことってあると思います。結婚とか子育てとか。まともにやろうと思ったら、自分に期待しなければできないと思います。自分がどうなりたいか、というビジョンは全て期待から生まれると思う。壁を乗り越えるとき、自分に期待していると思うんです。超えられるはずだ、と。あるいは周りの人や上司がそれを期待しているかもしれない。
 今は自分に期待することで、またわたしの人生は始まるんだ、と思っています。たぶん、わたしの人生は刺激的ではないし、どうしようもないものかもしれないけれど、それでも、自分に期待できる、とっかかりみたいなものを探しているのです。きっと、それは自分の好きなものとか、ドキドキするものにつながっているものでしょう。期待して、どこへ行くのか、わたしにはわかりませんが、そうなるといいな、と思っています。
 ──自分に期待するってどういうことなんでしょうか?
 精神の病から回復するということがどういうことなのか、わたしにはよくわからないですが、自分に期待する、期待できる、ということは大きいことだと思います。ずっとわたしは卑屈だったから。自分に期待できなかったのは、周りにわたしに期待する人がいなかったからだと思う。今は少しずつ自分に期待できるような気がします。それは周りに人がいるからだと思う。自分の期待、人の期待そういうものが可視化されてきていると思う。それがどういう形になるか、わからないけれど。期待するということは眠っている何かを起こすというようなイメージがあるかもしれない。期待することで人生は進んで行くし、それを可視化できることは楽しいことだと思う。どんどん期待していったらいいと思うし、それでできること、できないことが見えて来ると思う。期待する、という漠然としたイメージを具体化して行くのは、結構楽しいことだと思います。何かとっかかりが見えるといいのですが。考えることでしか先に進んでいかないのも事実だと思う。それを諦めたくないのです。そう思っているうちは、大丈夫かと思います。
 (2016年09月29日横浜にて 文責it_shine)

自分に期待したい

自問字答

 期待してくれる人があるという幸福を。わたしは多くのものを失っているような気がする。わたしがしゃべれないということは、しゃべれないというだけでなく、いろんなものを日々失っているのだ。そのことにわたしは無自覚なまま一日いちにちを過ごしてしまっている。この生活の中で、わたしが日々得ているものはなんだろうか。得ているものと失っているもの、わたしは天秤にかけることがあるだろうか。
 わたしはあまりに世間知らず過ぎやしないか。そしてそれはあまりに不安なことである。わたしは社会の一端しか知らない。多くの人がそうかもしれないが、わたしはあまりに知らな過ぎる。
 ある時までわたしは期待されていたと思う。わたしだってわたしを期待していたと思う。そういう気持ちは失っていった。
 何よりも、自分を期待しなくなったということは大きいことなのではないか。闇の中を突っ走っている気分だ。自分でさえ光がさすなんて思っていない。ずっとこのままかもしれない。そのことに、恐怖を感じていない。不安でないのだ。自分に期待しなくなったのは、年齢のせいなのか、障害のせいなのか。あるいは両方か。不甲斐ない自分を、正当化しようとしている自分がいる。年齢のせいだと、障害のせいだと。
 年齢に負けるな。障害に負けるな。年齢に負けた瞬間に老人となり、障害に負けた瞬間に障害者となる。わたしはどっちにもなってはいけない。まだ若いと言って、自分に期待しなくなったら老人であると思う。わたしはそうなりたくない。自分の不行き届きを何かのせいにしたら、その瞬間から障害者だと思う。障害は目に見えるだけのものではない。
 自分に期待しよう。希望は大切だ。たぶん何よりも。全ての言い訳を理屈の元に投げ捨てて、わたしは生きたい。わたしは何でもできるわけじゃないが、何にもできないわけじゃない。その線引きは簡単だ。考え続け、実行し続けたものだけが、その線を跨ぐのだ。
 自分への期待は、自分への追い込みへと続いてく。どこまでできるか。何をやれるのか。自分を追い込むことでわたしは生き永らえる。自分に期待したい。

期待されること

自問字答

 わたしが、自分の思っても見なかった力を出せたとき、わたしは、期待されていたのではないか、と思ったりする。その期待に応える形で、わたしはいつも自分の力を発揮できていたように思う。今日はそのことについて考えたい。
 期待されるから、できる、ということもあると思う。できないよーと思いつつ、できるかもしれない、と思うのは、期待する人がいるからだ。もしかしたら、その人にはわたしができている姿が見えているのかもしれない。主観的に見た自分と、客観的に見たわたしでは、違うものが見えている、ということは往々にしてありそうだ。外から見て、できそうだ、できるだろう、ということは、自分には見えていないことだってある。それを気がつかせてくれる、外の目を大事にしないことには、自分の思っている以上の力なんて、出ないのかもしれない。
 ここ数日にわたって、限界を超えたいというようなことを書いてきたけど、自分の思っている限界と、人の思っているわたしの限界には大きな隔たりがあるのかもしれない。それが、期待となって現れるのだろうと思う。
 親しい人との間で何かをする時、必ず期待という言葉は付いて回るものかもしれない。人と会う時、相手が来ることを期待するし、コミュニケーションを取ることを期待する。いろんなことを期待してわたしたちは人と会ったり、コミュニケーションをとったりしているんだと思う。
 愛する人の期待には、応えたいと思う。そのための努力ならば、いくらでもできそうだ、と思う。自分の意思を失わないというか。努力は努力で無くなる瞬間は期待されているから起こることかもしれない。
 わたしにできて当たり前なのに、できないことがあるとしたら、例えばしゃべれないということは、誰かに強く期待されていないということなのかもしれない。そういうキーになる人がいるのと、いないのとでは、全然違うのだと思う。わたしの人生に於いて、いろんな壁があるだろうと思う。わたしは、期待されてそれを乗り越えていくのだろう。そういう予感がずっとある。
 期待されすぎるのも良くないかもしれない。自分にとって何が良いのか、判別が、つかないでいる。そういうタイミングがあるというような気がする。過剰な期待は、ときに人を萎縮させる。
 期待は、自分で自分にしても良いのだと思う。できるかもしれない、という期待を自分に持つのも、悪くないと思う。